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恋愛工学は女性蔑視なのか

僕は30代独身男性なのですが、藤沢数希氏の週刊金融日記というメルマガを長期に渡って購読しています。

僕もある専門職として働いているのですが、藤沢氏の社会に対する分析力には目を見張るものがあります。藤沢氏のメルマガは、いわゆる恋愛工学ばかりに焦点が当てられますが、それ以外の社会全般に対する分析が秀逸だと感嘆することが多いです。

藤沢氏にとっては専門分野でなく、私にとって専門分野といえる事柄についても、要点を抑えて的確な議論をされている印象です。

最近のメルマガはやや宗教的だなと感じることもあり、私自身は、一定の距離を置きながら、ただ読み物として面白いため、購読を続けている状況です。

 

そのような中、

 

「恋愛工学」はなぜ危険なのか:女性蔑視と愛の砂漠 - 感じない男ブログ

 

という恋愛工学に対する批判を試みる記事を読みました。

私は、何の利害関係もなく、どちらが正しいか等は全くどうでもいいのですが(森岡正博氏の文章も論理的で一定の説得力があると感じました。)、この記事を読んで、藤沢氏の議論が「女性蔑視」とされている点に違和感を感じたので、少し考えてみました。

 

私が、週刊金融日記を購読して感じるのは、藤沢氏は、「科学」的に物事を捉えている方だな、ということ。そして、恋愛工学は、科学的に「愛」であるとか、「男女問題」であるとか、これまで定義不可能であったものを考察しようとしていると感じます。これは藤沢氏の文章全体の表現方法や、そこから感じとられる性格、これまでの職歴、興味関心分野などを総合的に見てそういえると思います(何よりも文体ですかね。)。恋愛「工学」という学問名や、「愛」を「証明」しようと思う、という書籍のタイトルも、こう思わせる要因の一つですね。恋愛工学は、科学として存在しようとするだけのものであって、それ以上でもそれ以下でもないように思われます。

 

私も一人の独身男性として、女性と食事やベッドを共にすることがありますが、たとえば、セックストリガー理論については現実にこのような作用があることを認めざるを得ません。文系の私には、うまく説明はできないのですが、生物学やDNA論などの学問的な見地、あるいは統計学的アプローチから何らかの裏付けがとれる、「蓋然性のある事実」だと感じます。セックストリガー論というのは簡単にいえば、女性はセックスをした男性を好きになる、というものですが、現実にセックスの前後で、女性の男性に対する依存度が変化することは否定できないと感じるのです。その意味では、むしろ、なぜこのような研究がこれまで進んで来なかったのか、疑問にすら思います。

 

だからと言って、僕自身は、このセックストリガー論を利用して、女性を弄ぼう、セフレをたくさんつくろう等という気持ちは微塵もありません。そして、さらにいえば、藤沢氏のメルマガ、ブログなどを全体としてみれば、これを推奨しているとは到底思えません。たしかにメルマガ内には、森岡氏も指摘するように、一見そのようにも読める、誤読の可能性がある表現が散見されます。ただ、私には、やや複雑な議論をわかりやすく平易なものにするために、敢えてシンプルな表現が用いられているだけのように感じます。主張の全体を見れば、藤沢氏は愛を科学的に分析しようとしているだけということは明確だと思います。ただ、このあたりは、私は継続的にメルマガを読んでおり、藤沢氏の主張がある程度理解できる立場にありますから、誤解を与えない表現を用いるべきではないか、との議論の余地はあると思います。

 

そして、愛が、性を要素の一つとし、性が欲望、金銭の対象となっている以上、場合によっては、これを悪用しようとする者が出てくるかもしれず、その意味では、森岡氏の問題提起は検討に値します。しかし、森岡氏が恋愛工学を女性蔑視と結論づけるのであれば、それは、藤沢氏の全体的な考察・分析を読み違えていると思います。科学は、悪用の可能性があるという理由でその価値を否定されることにはならないはずです。

 

僕は、恋愛工学において議論されている内容は、心から愛する女性を探すために、その女性と愛を育むために有用なものであると思っています。少なくとも、僕にとっては、愛とか、恋とか、欲望とか、男女のすれ違いとか、結婚とは何かとか、これまでどれだけ考えてもわからなかった対象を客観的に考えるきっかけになりました。メルマガでは特に推奨されていないようですが、私は愛する人と、幸せな結婚をしたく、日々努力しようと考えています。

 少なくとも恋愛工学の背景に、科学的に愛を分析しようという知的欲求はあっても、女性を蔑もうという思想はなく、この点をもって森岡氏の議論には一定の違和感を感じた次第でした。